生きること、学ぶこと、ユダヤでは慈悲を受ける人も役に立っている

 

こんにちは

 

お読みいただきありがとうございます。

 

昨日、公立中学校の教師を
している夫と話していたら、

.

「コロナで、たくさんの生徒が、
『先が見えないから、勉強が手に付かない』
と悩んでいる」

 

という話を聞きました。

 

そのことについて思ったことが
ありましたので、
話していきたいと思います。

 

「勉強」=「受験勉強」のままの現実

 

夫は今、中学3年生の
担任をしています。

 

どうやら、いま、コロナの影響で、
年間のスケジュールを大幅に
見直さなければならず、

 

みんなが楽しみにしている、
修学旅行、体育祭、文化祭などの、
ビッグイベントができるかどうか
雲行きがあやしいそうです。

 

さらには、3年生といえば、
「受験」が控えています。

 

楽しみのイベントが
なくなるかもしれない上に
受験自体も、
どうなるか分からない

 

という二重の不安で、
「勉強が手に付かない」
という生徒さんが
続出しているとのことです。

 

たしかに、
楽しみの行事がなくなるうえに、
そもそも先が見えない、
というのは

 

大人でも精神的によくないな、
と思った半面、

 

やっぱり勉強っていうのは
そのレベルの立ち位置なのかー、

 

という思いをどうしても
強く感じてしまいました。

 

(もちろん、生徒さんが不安で
どうしたらいいか分からないという
現状を抱えている気持ちも
わかりますし、

 

責めるなんて意図はまったくなく、
飽くまでも、もっと大局的な意味で、
書かせていただいています。)

 

「勉強」という言葉を聞くと、
大人でも、「受験勉強」を
連想してしまう人が多いと思います。

 

それこそ、受験を控えた
中学3年生なら、なおのこと、

 

「勉強」=「受験勉強」と
思うことは何の不思議もありません。

 

もちろん、自分自身もそうでした。

 

でも、それが、今となっては、
反省の意も込めて、

 

受験は、どうしても「目先」の目標で
しかないように思えてなりません。

 

 

ユダヤのいう、生きる目的とは?

 

ここでひとつ質問ですが、

 

「あなたが生きている目的はなんですか?」

 

と、とっさに質問されて、
即答できますでしょうか。

 

普段から強く意識している人は
別ですが、

 

ふつうは、
こんな質問を直球でされてしまうと

 

「うっ」っと詰まってしまうと思います。

 

いっぽう、ユダヤでは、

 

「人間ひとり一人が、
世界をより良くするために生きている」

 

と考えています。

 

ひとり一人が生きるミッションを
持っていると、信じているのです。

 

極端な話、
他人の慈善で生きているような
貧しい人たちですら、

 

「私はあなたたちの役に立っている。
なぜなら、あなたは私に慈善を
ほどこすことで、神に対する
義務を果たせているからだ」

 

と考えています。

 

もう少し説明しますと、
そもそもの前提として、
ユダヤでは、

 

「生活に困っている人に
慈善をするのは神に対する義務」
とされています。

 

つまり、
「慈善をしてあげるには、その対象となる
『貧しいひと』がいなければならず、

 

『貧しいひと』の役割を
担っているひとは

 

「私がいるから、
みなは慈善行為ができるんだ。
だから、私の存在価値は素晴らしい。
私は人の役に立っている。」

 

ということなんです。

 

かなり斬新な考えかたですよね。
「そんな見かたがあるんかい!?」
と驚きました。

 

だって、日本で、
路上生活者の人をみて
「このひと、世界に貢献してる!」
って思うひとなんて、いますかね?

 

そんなの、100人いたら1人いるか、
いないかじゃないでしょうか。

 

少なくとも、9割のひとは
そんな考えがあるなんて、と
想像すらできないんじゃないかと思います。

 

大半のひとは、

「大変そうだな」

「かわいそうだな」

 

であったり、場合によっては

「迷惑だ」

「邪魔だ」

などのマイナスイメージを
持つ人のほうが多いんじゃないでしょうか。

 

もしくは、存在自体をスルーする、
というひとも、多くいると思います。

 

路上生活をしている当の本人だって、
「わたしは世界に貢献している」
なんて、自信満々に
思えないですよね、きっと。
(これはわかりませんが・・・)

 

日本ではそれくらい地位が
低い人たちなのに、
「ユダヤ」の目を通すと、

 

「生きるミッション」
をちゃんと持った、
『人に価値を与えている人間』
になるのです。

 

人間のものの見かたというのは
ちょっと刺激してあげれば、
自分の想像をはるかに超えた
ひろがりを持てるんだなー

 

と、素直に感心してしまいます。

 

親は子どもの視野を広げてあげられる

 

ユダヤ人にとって、
「学ぶこと」とは
「生きること」そのものです。

 

もっと言えば、
「学んで、世界を良くすること」が
生きる目的です。

 

つまり、学びの先には
世界を良くするという
ミッションがあるのです。

 

日本のように、
学びの先にあるのは、
受験や就職といった狭い
世界ではありません。

 

ここで、思うのは、
学びの先に見えている世界観の差が、
なぜできるのか?です。

 

ユダヤの子どもは、
生きて世界を良くするために
学ぶのに

 

日本の子どもは
受験のため学ぶ・・・

 

自分の人生を振り返ってみても、
勉強はひたすら
受験のためでした。

 

当時はそれで一生懸命でした。
ある意味、それが生きるため
だった、とも言えます。

 

ただ、いま振り返って思えば、
それは学びとしては
ずいぶんと不十分過ぎたなー
ということです。

 

もっと遠く先を見て、
学んでいれば、

 

学びかた自体も変わっていたし、
その後の生き方も変わっていた
んじゃないかと思います。

 

仮定の話をしても
あまり意味がないので、

 

教訓にするという意味で、
いま、もし、
わたしが子どもだとして、

 

親にひとつお願いするなら、

 

学びの先にあるものを
少しでも語って欲しかった、
と思います。

 

受験の先にあるもの、
学びと生きるをつなげてくれるような、
ことばが欲しかった、、、、と。

 

・目先の受験
・学歴
・いい会社に入る

 

そんなことじゃなくて、
もっとその先にある
そのときの自分には
見えないけれど、

 

方向性を間違わなければ、
少し先には見えてくるであろう世界を
想像できるような、
ことばが欲しかった

 

と思います。

 

もちろん、親に指南されなくても、
自ら悟っているひとは
たくさんいらっしゃいます。

 

なので、親のせいにするつもりは
ないですし、
恨みつらみを言いたいわけでも
ありません。

 

でも、自分が親になって思うことは、
親は、子どもの視野を広げて
あげられるポジションにいる
ということです。

 

親が子どもにどんな
ことばを語りかけるかで、

 

子どもの思想がもつ射程距離は
何千キロも、何万キロも
変わると思います。

 

広さもかわります。

 

目先の「学び」の先に
なにがあるのか?

 

今いるところから、
矢印はどこにむかって、どのくらい
広く遠くに伸ばせるのか?

 

ここで、最初の中学生の話に
もどりますが、

 

もし、親がそんな話を中学生に
してあげられるとするならば、

 

コロナで目先の行事が
なくなったとか、
受験がどうなるか
分からないという不安から、

 

少しは解放してあげられるのかな、
と思います。

 

解放してあげられるどころか、

 

「世界をより良くするために
わたしは、ぼくは、生まれてきた」

 

「より多く学ぶことで世界を変えられる」

 

なんていう、次元の違った思想にすら
気付けるのではないかと思います。

 

よく言われますが、
これからの世界は
加工しない単なる知識の価値は
どんどん下がっていきます。

 

それに、みんなと同じように勉強して、
同じように就職していればいい
という社会ではなくなりつつあります。

 

従来の、目先の目標だけでする勉強は
大局的に見て、子どもの時間を
無駄にしてしまう可能性があります。

 

だからと言って、わたしは
基礎的勉強をしなくていいとは
思っていません。

 

大事なのは、目先の小さな学びを
積み重ねながら、子どもに
その先を想像させてあげられる
世界観とことばを親が持つこと。

 

「学んだ先に世界をよくできる
という未来がある」

 

そう子どもが思えるような
思想を親自身が持つこと

 

ではないかと思います。

 

ということで、
今回は、生きること、
学ぶこと、についてでした。

 

ご自身の生活、お子さんへの教育などに
少しでも参考になればうれしいです。

 

わたしも引き続き、
精進したいと思います。

 

P.S.

 

買い物ついでに久々に
公園に行ってみました。

 

子どもは楽しそうでしたが、
とりあえず、暑かったです・・・

 

2ヵ月引きこもって
気付けばもう夏ですね。

 

最後は、ハトが怖いと三女が
泣きだしたので公園から退去しました。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

 

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