教育とは、学校で習ったことをすべて忘れてしまったあとに残るもの

 

こんにちは

 

今日は、ユダヤと日本では
「教育」「勉強」というものへの
そもそものとらえ方が違っている

 

と感じたことについて話をしたいと思います。

 

「教育」「勉強」と聞いて
どんなことを思い浮かべるでしょうか。

 

多くの方は「学校」「先生」
といった言葉を連想するのでは
ないでしょうか。

 

いっぽう、ユダヤでは、
「学校」「先生」という狭い
枠の中だけで捉えることは
決してありません。

 

むしろ、「大人」や「家」も含めて
人間の「一生涯」で重要なもの、
無くてはならないものとして
捉えます。

 

 

忘れた結果、残るもの

 

かの有名なユダヤ人、
アインシュタインの晩年の書に
こんな言葉があります。

 

教育とは、学校で習ったことをすべて忘れてしまったあと、自分のなかに残るもののことである

 

???

 

・・・忘れるのに残る??
なにが???

 

学生の頃の自分を振り返って、
学校で覚えたことなんて
ほんまに覚えてないなーと
情けなることがよくあります。

 

わたしは大学受験のために
めっちゃ勉強したんですが、

 

なんとか運よく
合格できたことは
良かったのですが、
その後、見事にバーンアウトしてしまい

 

あの勉強ってなんやったんやろ・・・。
結局なんにも残ってないやん・・・。

 

と、大学に入ってからも何回も何回も
情けなく思いました。

 

でも、アインシュタインほどの人が、
正面切って

 

「学校の勉強なんて忘れるは当然だ」
ばりの主張を前提にしていると
さすがに「え!?いいの!?」と驚きます。

 

せっかく習ったのに、
頭に残ってないなら
学校の意味ないやん

 

っと思っていた私からすると
不思議すぎます。

 

でも、実は、この言葉には
アインシュタインの深い思いが
こめられていて、続きがあります。

 

教育は、他人から立して思考することができる人間を作るための訓練である

そして、その力を、社会が直面する高度な問題の解決に役立たせなければならない。

つまり、
これは、学校での教育は

 

「思考する力」
「問題を解決する力」
「自分で学ぶ姿勢」
「やりきる力」

 

など、社会に出たら必要になる
目に見えない能力を訓練する場所
だと教えてくれています。

 

学校で身に付けた直接的な知識が
大事ということではないのです。

 

また、ここでもう一つ重要なのが、
「社会が直面する高度な問題」と
書かれていて、つまり、それは
大人が対処すべき問題のことです。

 

「教育」と言うと日本では
もっぱら、「子どものため」
という連想をしがちですが、

 

ユダヤでは、教育に年齢は関係なく

 

「一生を費やして自分を伸ばし続けること」
を教育と言います。

 

つまり、「教育」「勉強」に
「大人」も「子ども」も関係なく
”全員が対象”というのがユダヤのスタンスです。

 

わたしたちは
「教育」という単語を聞いたときに
まさか「大人である自分」が
その対象だとは考えないと思います。

 

また、日本では、
どうも「勉強」というと
「大変」とか「しんどい」とか
気が引けるイメージがある気がします。

 

受験だって、「受験戦争」なんて
ネーミングがあるぐらい、
「勉強」=「戦い」というくらい
苦しいことで

 

「勉強」=「楽しい」とは
なかなか直感的に思えません。

 

ところが、ユダヤ人は違っていて
一生を通じて、勉強や努力を
まったく苦にしない工夫があります。

 

そのヒケツは、勉強に対しての
とらえ方にあります。

 

ヒミツは「はちみつ」にあり

 

ユダヤ人は物心ついた頃には
聖書(トーラー)の暗唱を始めますが、

 

このときに、実際に聖書に「ハチミツ」を
垂らして、子どもになめさせます。

 

実は、このハチミツが効果てきめんで、

 

「聖書=甘い」
「勉強=甘い」

 

という刷り込みをこの時に
やってしまうのです。

 

「三つ子の魂百まで」といいますが、
このハチミツが
「勉強=甘い」
ということを体に覚え込ませます。

 

もちろん、ユダヤでは
勉強することがすなわち
神の戒律を守ることなので

 

勉強は必須なのですが、
それでも苦痛だと続きません。

 

だからこそ、あえて幼児期に
勉強は甘いという洗脳を
ハチミツによってしてしまい、

 

生涯にわたる勉強大好き脳を
意図的に作ってしまうのです。

 

考えてみれば、
はちみつくらいで我が子が勉強する
子どもになるなら、
そんなコスパのいい投資はないですね。

 

こういう工夫もさすが知恵の民族だな
と思います。

 

また、ユダヤでは小さいころから
こんな格言やことわざを聞かされます。

 

「もし、本と服を汚したら、まずは本から拭きなさい」

「学んだことを復習するのは、覚えるためではない。何回も復習するうちに、新しい発見があるからだ。」

「100回復習するのと、101回復習するのでは、その1回の差に大きな違いがある」

「恥ずかしがって質問しない人は、良い生徒になれない」

「人にとって学ぶのは結果ではなく、過程こそが重要だ」

本が大切とか、復習が大切とか、
そもそもの学びへのスタンスや
マインドの重要性を
常に教えられています。

 

父親こそが教育のキーパーソン

 

ユダヤでももちろん、
学校は重要です。

 

ただ、それ以上に家庭が
大事とされており、

 

13歳の成人を迎えるまでは
家庭こそが教育の中心と考えられています。

 

ユダヤの家庭は古代から「核家族」です。
いまの日本と似ています。

 

なぜ核家族かについて
少し説明しておくと、

 

聖書の『創世記』では
次のように神から
命じられているからです。

男はその父母を離れ(捨て)、妻と結び合い、二人は一体となる

親から離れて夫婦でがんばりなさい、
という教えなのです。

 

そして、また、
こと教育については
父親にその多くの負担を
負わせています。

 

母親にも子どもに聖書を学ばせる
義務はあるのですが、
母親はあくまで家事と育児で、

 

教育するのは父親です。
どのくらい重い責任かというと、

「息子が13歳で成人を迎えれば、『神が私をこのあまりにも重い責任から解き放たってくれたことに感謝します』と唱えよう」

とか、

「息子を正しく導くことができる父親は、永遠の栄光を手にする」

と言われるほどです。

 

子どもの教育は
神から与えられた聖なる義務のなかで
最も大切なものなので、

 

極端な話、ユダヤ人の父親にとって、
教育は日々の仕事より大切とすら
考えられています。

 

ですので、仕事は定時で終わらせて、
さっさと家に帰って子どもに勉強を教えます。

 

もし、日本で

「子供に勉強教えるんで定時で帰ります!」

っと堂々と言えるお父さんが増えたら

 

会社の雰囲気も、家庭の雰囲気も
個人の生き方も
ガラリと変わりますね。

 

ゴールをどう見据えるか

 

ゴールをどこに見据えるか?

 

で、全く日々の学ぶスタンスが
変わると思います。

 

ユダヤでは学ぶというのは
立身出世のためではありません。

 

学ぶことがすなわち
神に近づくことであり
社会正義を行うためのもの
と信じられています。

 

私は、小学校1年生の時に、
計算問題が大の苦手でした。

 

そこで母親は母親なりに考えたらしく、
なんとか私に計算を
早くさせようとして

 

「計算問題でクラスで一番取ったら1000円あげる」

 

と言いました。

 

当時の私にしたら1000円は大金ですので、
1000円欲しさに一生懸命がんばった結果、
一番を取れたということがありました。

 

もちろん、それ自体が悪い
とは言いません。
取っ掛かりとしては
意味があったのかもしれません。

 

ただ、それが、次は
10,000円のため、

次は
100,000円のため、

 

あるいは、
受験のため
就職のため
昇格のため

 

といつまでたっても
無機質的な目標のために
とどまってしまうのが問題なのです。

 

目先の利害のために頑張るのと、

 

「自分の人間性を磨くため」
「社会のため」
「人のため」

 

という志を持つのとでは
学び方も結果も
まったく違ってくる
と痛感しています。

 

ですので、今は、自戒も込めて、
自らの学ぶということへの
スタンスを改めるとともに、

 

子どもに学ぶことの意味について
教えていきたいと思って生きています。

 

このブログを読ん下さっているあなたにも
ユダヤの教育、学びへのスタンスが
少しでも参考になればと願います。

 

 

P.S.

 

5月14日、ようやく
コロナの緊急事態宣言が
39県で解除されました。

 

大阪はまだ解除されていないものの、
小学校では分散登校が始まりました。

 

そんな中、小学2年の娘も2ヵ月ぶりに
分散登校で学校に行き、
特に何事もなく帰ってきました。

 

親としても
「あーひさしぶりに学校行ってくれたなー」
と思っていた翌日、

 

娘が

 

「学校行きたくないねん。
勉強もいややし、友達もいややわ。」

 

と言い出しました。

 

一瞬ギョっとしました。

 

私自身も学校なんて全然楽しいと
思えなかったので、

 

子どももいつかそんなことを
言い出す日が来るんじゃないかと
うすうす覚悟していたのですが、

 

「おっ、もう来たか。
ちょっと、早くないか?」

 

というのが率直な感想でした。

 

わたし自身は母親が怖すぎて、
学校を休むなんて選択肢は
一切なかったのですが、

 

自分が母親となった今では、
極論すれば
学校なんて行かなくても死なへんやろ
と思っています。

 

なので、最悪娘が行かなくなっても
いいのはいいのですが、

 

ひとまずは、深刻な問題になる前に
娘と人生のゴール、ビジョンについて

 

話す時間を持ってみようと思います。

 

ちなみに、写真は長女と次女が
家で作ったピタゴラスイッチもどきの
仕組みです。

 

実際にボールを転がしてみても
まったくボールは進みません。

 

でも、こういうのを
本気で楽しそうに
作っているのを見ると

 

ただただその一途さと
想像力に羨ましさを
感じます・・・・。

 

子どもの頭のやわらかさが欲しい!!

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

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