“ 出産の激痛 ” は『アダムとエバ』が原因だった!

 

こんにちは

 

今日は、誰でもおそらく
名前くらいは聞いたことがある
「アダムとエバ(イヴ)」の話に
ついて書いていきたいと思います。

 

そう、「アダムとエバ」
実はこれ、聖書のお話です。

 

聖書の最初に書かれている
「創世記」の話です。

 

神は1日目に「光」を作り
6日間かけて大地や動物を作り
6日目の最後に
塵(土)から人間を作りました。

 

その人間の名を“アダム”といいます。

 

そして、神は

「人間は一人ではいけない」と言って
アダムのあばら骨から“エバ”を作り

 

ふたりを“エデンの園”に住まわせました・・・・。

 

という展開で始まる神話です。

 

 

で、今回この物語を改めて
読んでみて、聖書的には

 

「女の出産の苦しみは
ここがはじまりなのか!」

 

と発見しましたので
書いてみようと思います。

  

「善と悪を知る木」の実を食べた罪

 

この記事を読んでくださっている方で

 

出産をしたことがある方
あるいは
出産に立ち会ったことのある方

 

ならリアルにお分かりに
なると思いますが

 

「自然分娩で子どもを産む」
ときの痛みは“激痛”以外の
何ものでもありません。

 

とりあえず、めちゃめちゃ痛いです!
(叫びまくる妻を目の当たりにした
男性も多くいらっしゃるはず・・・)

 

その痛みを例えて、
「鼻からスイカが出るくらい痛い」
とか言う人もいますし

 

昔、タレントの松嶋尚美さんが

「鼻からスイカどころか
鼻からドリアンや!」

と言っていて、ほんまやな!
と思った記憶があります。

 

わたしも3人子どもを産んでみましたが
間違いなく
3人とも激烈に痛かったです!!!><

 

長女と次女を産んだ時に

「なんで女だけこんな痛い思いせなかんねん!?」

「もっと合理的に産める方法ないんか!?」

「この産み方に意味あるん??」

という疑問でいっぱいでした。

 

とはいうものの、
考えたところで痛いもんは仕方がないので

 

三女を産むときには
「人間一体をこの世に送り込むねんから、
そのくらいは当たり前か」と

 

「なぜ痛いのか?」
など考えなくなっていました。

 

ところが、ユダヤを学び始めて、
聖書の最初には何が書かれているのか?

 

と思って調べてみたところ
この出産の痛みの原因が
書かれていたのです!

 

で、その原因は何かというと

 

神が『善と悪を知る木』の実は
食べるな!

 

と指示していたにもかかわらず、
アダムとエバは食べてしまった

 

からなんです。

 

少し説明しますと

 

妻のエバは神から

 

「絶対に食べてはいけない、
食べると死んでしまう」

 

と言われていた木の実を
蛇にそそのかされて
食べてしまいます。

 

で、その実を夫のアダムにも
分け与えます。

 

案の定、神は激しく怒って
エデンの園から二人を
追放してしまうのですが

 

このときに、神は妻エバに対して

 

「おまえは労苦のなかで子を産むことになる」

 

と言い放つのです。

 

そう、つまり、

 

エデンの園から追放されるときに、
「女は苦しんで出産せよ」と
神に命令されてしまうのです。

 

なるほどなーという感じですよね。

 

女性って、きっと
「出産、なんでこんなに痛いねん!?」
と思っている人いると思うんですよね。

 

でもこれ、「神の命令かー」

 

しかも、「神が禁じた行為をした罰かー」

 

となると受け入れるしかないな
とならざるを得ないのかもしれません。

 

聖書の創世期の話は
(アダムとエバの話も含めて)

 

ユダヤ教のみならず、
キリスト教、イスラム教の
始まりにもなっています。

 

つまり、世界の50%くらいの人は
この内容を知っているので
子を産む痛みに納得している(?)
のかもしれません。

 

(私はなるほどとは思っても納得はしていませんが。笑)

  

ちなみに、神は夫のアダムに対しては
何の罰をあたえたかと言うと

 

「おまえは地上の生き物のなかで、
もっとも呪われる。
おまえは額に汗して食物を
得なければならない」

 

と言っています。

 

これは家族のために頑張る
サラリーマンを連想させますね。

 

 

夫は妻に責任を転嫁した!

 

さきほどの神とのやり取りのなかで
興味深いのが、
禁断の実を食べた時の
夫アダムと妻エバのやり取りです。

 

神が禁断の実を食べた二人を
追及したとき、

 

夫はなんと、開口一番、神に対して、

 

「あなたがあたえて下さった妻が
実を食べるようにと言ったから
わたしは食べただけなのです!」

 

と「いかにも自分は悪くない」と
妻に責任を転嫁するのです。

 

さらには、神に対してまで

 

「あんたの選んだ妻が悪いんだから
そんな妻を選んだ神自身の人選ミスでしょ」

 

とでも言わんばかりの言い訳をしています。

 

すぐに「すみません!」と
ならないところがさすがだな、
と思いますよね。

 

ここでポイントなのは
蛇がエバをそそののかして
禁断の実を食べたときの”現場状況”です。

 

物語には
「エバはともにいた夫に実を与えた」

 

と書かれている

 

つまり、

 

エバがヘビに誘惑されて
果実を食べたとき
夫もちゃんと
横に居合わせていたのです!

 

ということは、
夫は妻に「やめときなさい!」と
止めることもできたわけですよね?

 

なのに、傍観していた。

 

現場状況からして
夫も共犯と考え得るにもかかわらず

 

聖書は長年、男性側の視点でしか
読まれなかったため

 

キリスト教会の伝統では
この「人類の堕罪物語」の
根本原因を作ったのは女性だ!
とすら見ていたのです。

 

「どこまで女を見下すねん!?」
と言いたくなりますが・・・。

 

「夫も同罪か!?」という解釈が
女性の視点で指摘されるように
なってきたのはここ最近の話だそうです。

 

 

「罪」は「悪」か?

 

この「アダムとエバの過ち」ですが
キリスト教では「原罪」と言われて
『 ”罪”と”死”の始まりだ』と
解釈されています。

 

いっぽう、ユダヤでは
「罪」とは言っていません。

 

旧約聖書のほかの部分でも

 

「罪を犯さない人間は存在しない」

 

と人間を罪と共存させるような
言葉で書かれています。

 

キリスト教は「罪は悪だ!」と
言い切って
完全シャットアウトするのですが

 

ユダヤでは

 

「罪がダメなのはわかってるけど、しちゃうよね」

「人間そんなにえらくないでしょ」

 

というスタンスです。

 

こういうところの解釈も
ユダヤは、まずは現実を直視をして、
それをコントロールすることに
重きを置くんだと改めて思います。

 

「きれいごと」で
世の中うまくいくほど
清くはないだろ、という感じです。

 

ダイエットと同じですよね。

 

「ケーキ食べたらあかん!」と
わかってても食べちゃうときもある。

 

その時に

「ケーキ食べてしまった、
もう自分は最低だ、ダメ人間だー」

って自分を責めまくるよりは、

 

「ついつい食べてしまったから
夜はご飯やめとくか」

 

と、さっと切り替えて
コントロールする方が、
精神的に負担なく、
長続きしますよね。

 

我が家の例で言うと、

夫も子供もお菓子好きなので、
溢れんばかりのお菓子を
棚に置きまくって
オフィスグリコみたいな状態にしています。

 

なぜかというと?

 

お菓子を食べる量を
自分でコントロールできる人間に
なって欲しいからなんです。

 

「がまん、がまん、がまん!!!!!」

 

と思い続けてたらいつか崩壊します。

 

なので
「食べてもいい、けど量を考える」
という思考をちゃんと体得して欲しい
と、思ってそうしています。

 

(これは自分が我慢しまくって
あるとき崩壊したことで立証済みなので
その反省を踏まえての施策です)

 

実際、長女は昔、お菓子を
食べまくっていましたが、
あるとき気づいたら
激減していました。

 

「お菓子ばっかり食べたら身体に悪いから
あんまり食べんとくわ」
と自分で言い出したのです。

 

正直「おー」とびっくりしましたけど・・・

 

 

ユダヤでは、
「リスク」は排除するのではなく、
コントロールすることが大事。

 

という考えがありますが、
この「罪」に関する考え方も
同じなのかなと思った次第です。

 

 

「執着心」をコントロールする方法

 

この創世期に書かれているように
アダムは”塵”からできて”塵”に返ると
神は言っています。

 

そう、聖書の中では
「人間は“塵(土)”から生まれて“塵”に返る」
というのが基本的な人間観なのです。

 

ということは、
“結局は塵やん”っていう思想が
根底にあるわけです。

 

生きていると
「失う」ってことに対して
すごく恐怖を感じませんか?

 

例えば

「職を失う・・・」
「人間関係を失う・・・」
「お金を失う・・・」
「若さを失う・・・」

などなど

 

これらに心底悩むこと
めっちゃありますよね。

 

自分も人生振り返ってみると、
大体この悩みに苦しめられた気がします。

 

このときに

 

“結局わたしって塵に返るしな”

 

って、心のどこかでちょっとでも思えれば
少しは気持ちが楽になるんですよね。

(ほんまかに“塵”どうかは置いておいて)

 

あと、ユダヤには

「生まれてきてから得たものに
執着してはならない」

という言葉もあります。

 

生きていると「執着心」ばっかりの
自分の気付くときがあります。

 

そんなとき

 

この「結局は塵」
という思想をふと思い出すと、
半歩くらいは下がって自分のことを
見られるようになるかもしれません。

 

ということで、

今回はアダムとエバの物語をもとに、

①女性の産みの苦しみの理由

②「罪」「執着心」のコントロール方法

についての話をしてみました。

 

  

聖書は矛盾だらけの物語で
突っ込みどころ満載です。

 

今回は深堀していませんが
このアダムとエバの話でも、

 

「そもそも、
人間が善悪を知ったら
何がだめなん?」

「禁断の実を食べたら
死ぬって言われてたのに、
死なへんのはなぜ!?」

 

という疑問に対する議論を
歴史上の世界中のえらい人が
大真面目にやっていたりします。

 

聖書にはほかにも
いろんな話がありますが
そこにもたくさんの矛盾があります。

 

ユダヤでは、この聖書の矛盾を
スルーして妄信するのではなく

 

徹底的に「なんでや???」と
考えることで思考が鍛えられています。

 

宗教どうのこうの話ではなく、

あるいは、議論まではしなくても、

 

我々も普段の思考に
少しプラスして
ユダヤならどう考えるか?

 

と思いを巡らせるだけでも、
考え方の幅が拡がるのかな
と思います。

  

本日は以上でした。

 

お読みいただきありがとうございました。

 

P.S.

 

ちなみに、
生後数日の三女の写真です。

 

改めてみて、細いなーと。
いまは丸々と太ってます。笑

 

出産の激痛はエンドがありますが、
育てのしんどさはほぼエンドレス(?)

 

いやいや、前向きにがんばろー。

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